大久野島の名を有名にしたのは、大量に繁殖した野良うさぎたちの存在。通称「うさぎの島」としてテレビや雑誌に多く取り上げられたことで、年間36万人ほどの観光客(2018年度)が訪れる島になりました。
時間がゆったりと流れる長閑な島で、可愛らしいうさぎが溢れ、人々が幸せそうに微笑んでいる。そんな幸せそうな島には、もう1つの顔がある。
昭和初期、大日本帝国陸軍により太平洋戦争で使用する毒ガスをつくる工場をこの島につくりました。
敵国からばれないように秘密裏に作る必要があり、約16年ものあいだ、この島は地図に記されず「地図から消された島」となっていたのです。(実際は、明治・大正時代からその存在を隠されていた。※要塞秘匿のため)
今では無人島となっている大久野島は、この毒ガスが作られる前までは数十人が暮らす島でした。毒ガスを製造するにあたり、強制退去させられたんだそう。
その後、朝鮮戦争の際にもアメリカ軍が島内の建物を爆薬庫として使ったそうです。
毒ガス製造の作業に携わった人は、呼吸器系の癌やその他、主に癌の発生率が高く、多くの人が亡くなったそうです。
戦時中は大変だったんだねぇ…と終わりにしたいところですが、戦後海洋投棄や埋設された毒ガスが、のちのち影響を及ぼしたりしています。
休暇村建設にあたって、国が毒ガスの残留物がないか調査したところ、依然15トン近くもの毒ガスが防空壕から発見されるという事態に(昭和36年)。さらに、実際建設作業に取り掛かった際も、土中に埋められていた毒ガスに被災してしまったり、基準値を超えるヒ素が検出されるという深刻な土壌汚染が発覚したりしています。
ヒ素は今は対策されて、海洋生物の異常報告などもないそうですが、念のため島の井戸水は利用せず、休暇村で使われている水は島外から船で運んでいるそうです。
以前、海底送水管をつくることも計画されたみたいですが、いざ作ろうと思ったら、その辺りに海中投棄された毒ガス兵器が発見されたために、工事の見通しがつかずに中止になったという経緯もあります。
負の遺産は、現在もそうして私たちに影響を及ぼしているのです。
実際に島内を散策していると、たくさんの遺跡たちを見ることができます。
ここには、猛毒で皮膚がただれる、びらん性毒ガス「イペリット」が貯蔵されていました。
10トン入る大きなタンクがそれぞれの部屋の台座の上に置かれていました。管を使って工場から直接タンクに毒液が送り込まれていたそうです。
イペリットやルイサイトなどの液体毒ガスは腐食を防ぐため、内部に鉛を張り付けたタンクに保管していました。
今はもちろんそのタンクはないのですが、可愛いウサギを愛でていると、そのすぐ隣に突如ぽっかりと穴のあいた空間が現れるので、何とも言えない気分になります。
旧陸軍は、1929年から終戦まで、この島でひそかに毒ガスの製造を行っていました。主な製品はイペリットとルイサイトで、いずれもびらん性ガスと呼ばれ、皮膚をただれさせる性質を持ち、年間生産量は多いときは1500トンに及び、製造時期(15年間)の総生産量は6616トンと言われています。
第二次世界大戦が終わると同時に進駐してきた連合軍の支持の元日本人作業者によって、この島にあった毒ガス工場や製品を1946年から1年間かけて、薬品で消毒したり、太平洋の沖に沈めたり、火炎放射器で焼いたりして処分しました。
この建物は、それら毒ガスの貯蔵庫のひとつでした。コンクリートの内側が黒く焼け焦げているのは、当時、火炎放射器で焼却した痕で、そのすさまじさを物語っています。
当時、建物の前には高さ3~4mほどの小山を築き、コンクリートを迷彩色で塗ることで海上から見えないようにしていました。
これは、さきほどの貯蔵庫とは比べ物にならないほど大きな施設です。こんな施設を目の前にすると、楽しく騒いだりする気分には到底なれず、なんとも言葉少なに眺めるばかり…といった感じになります。
周りの豊かな緑生い茂る中で、静かに佇む様子は、何とも物悲しい気持ちを誘います。
ここは、日露戦争が始まる1902年に設置された芸予要塞の大久野島保塁北部砲台の跡です。
大久野島党内には北部・中部・南部の3箇所の砲台が設置され、合計22門の大砲が置かれていました。
この砲台には12㎝速射加農(カノン)砲が4門置かれていました。
こちらは 24㎝速射加農(カノン)砲が4門置かれていた場所。
日露戦争時には砲台前の広場には発電機関舎があったそうですが、毒ガス生産が始まると、タンクが置かれるようになったそうです。
この建物は、大久野島で毒ガスを製造する際に、電力を供給していた発電所跡です。当時ディーゼル発電機が8基設置され、いずれも重油を燃料にしていました。
また、この建物では1944年11月~1945年4月までのあいだ「ふ号作戦」に使用する風船爆弾の風船を膨らませ、弱い部分を補修する作業も行われていました。
使用された風船は、動員学徒の女学生が和紙をこんにゃく糊で貼り合わせて作っていました。
遺跡&廃墟マニアはかなりテンション上がるんじゃないかな?っていう、めちゃめちゃ雰囲気のある、でっかい建物です。
この中で毒ガスを作っていたんだな!?と思いそうになる雰囲気満載なのですが、発電所です。
といっても、毒ガスを作るための発電をする場所なので、思い切り関わりはあるわけですが、この中で毒を吸ってしまい、のちのち病気になって亡くなってしまう人がいた…というわけではないのですよね。
まぁ、分かりませんけど。発電所で作業もし、毒ガスも作り…と色々兼業させられていた人もいたのかもしれません。
こんな廃屋を眺めながら、心苦しい気持ちになっていても、そばには愛らしいうさぎたちがピョンコピョンコしているのです。
なんというか…気持ちをどこに置いたらいいのか分からなくなる空間です。
悲しむのか笑うのか…ヘビーブラックなのかメルヘンなのか…。
この広場の周りに医務室がありました。当初は診療所程度でしたが、1937年ごろに入病院棟も建てられ、本格的な病院となりました。
歯科、内科、外科、眼科、耳鼻咽喉科、レントゲン室、毒ガス治療室、病室(30ベッド)などがありました。
本当に今はあとかたもなく、がらーーんとした広場です。なぜか、うさぎもいないだだっ広い空間。どこにでもうさぎがいるような所なので、微妙に違和感を感じる謎空間でもあります。
たまたま私がいたときにうさぎがいなかっただけ…かもしれないけどね。
毒ガスは、化学薬品を反応させて、複雑な科学操作を経て製造していきます。そのため、製造設備の主要な部分は薬品に反応せず熱に強い陶磁器が用いられました。
戦後それらの設備はほぼ焼却、あるいは処分されましたが、ここに展示されている陶磁器製の器具は、それらの残された一部です。
毒ガス製造による悲惨な歴史を後世に伝えるため、永久に保存していきます。
…と書かれているのですが、それにしては保存状況が劣悪(笑)毒ガス資料館の横に目立たずひっそりと置かれていて、外だし…地べただし…で、当然穴空いてるからアナウサギたち入るじゃん(笑)
中…糞だらけですよ。
永久に保存する気が本当にあるのか謎な展示の仕方。毒ガス資料館の中に入れられなかったの?と思ってしまいます。
ちなみに毒ガス資料館は有料なのですが、こういう歴史を多くの人に知ってもらうためにも、無料で開放した方がよいのでは?とも思いました。
海外の人もたくさん来ますが、資料館に入っている人は少なかったですからね。たった100円ですが、されど100円。人によってはお金かかるならいいや…ってなる人もいますよね。 まぁ、色々理由はあるんでしょうけど。
毒ガス製造や戦争とは関係がないですが、島にはこんなものもあります。
1929年、毒ガス工場が開所した際に従業員が社殿を修復して「大久野島神社」とし、1932年に現在地に移転した神社らしい。
本殿は壊れまくり廃墟と化していて、立ち入り禁止です。一応神社…となっていますが、もはや他の廃墟と変わらず、神様の気配もないし、からっぽって感じ。
取り壊すか、ちゃんと祀るかどっちかにした方がよいのでは?と思いました。
こんだけ人が来てるんだから、修復してウサギの神様とか祀ればいいのに…と思った。(ウサギの神様ってなんだよ!って自分ツッコミ)
ついでにうさぎにあやかって子宝の神社とかにして、うさぎのおみくじにうさぎのお守りに…(妄想だけが膨らむ)
こちらは毒ガスの島になるもっと前、明治27年ごろに完成したものです。昭和33年には自動化され、現在も無人運用されています。
私が写しているこの地点までしか行けず、鎖が張られているので、灯台の真下にいったり、登ることはできません。
大久野島を中心とした瀬戸内海国立公園の自然環境や島の歴史について紹介しています。
これといって感動するようなものは展示されていないですが、入館料もかかりませんし、せっかく島に来たならちらっと入ってみるのもいいですよ~という感じです。
この辺りにスナメリクジラがいるそうです。今はあまり見られないみたいですけど…というか瀬戸内海にスナメリクジラいるんだ!と、驚きました。これはビジターセンター入って知れたので良かった(笑)
うさぎが可愛いので、もうとにかくひたすらうさぎ!!!ってなるんですけど、こんな平和な風景が広がる今とは違った景色が、過去にはあったんだぁ…。そうやって思いを馳せながらうさぎと触れ合えば、より今の幸せを心から噛みしめることができるかもしれません。
私たち、幸せな時代に生きているよね?って。
こんなにテンションが上がったり下がったりする島、なかなかないんじゃない?と思ったりした今日この頃。
お時間あれば、動画もどうぞ!